2024年2月22日

新1万円札の顔"渋沢栄一"に学ぶ「新社会人の心得3選」

写真

渋沢栄一 渋沢史料館所蔵

今年2024年7月、福沢諭吉でお馴染みの1万円札のデザインが40年振りに変わります。
その顔に今回選ばれたのが、日本初の銀行「第一国立銀行」を始め、500にのぼる会社の設立・育成に携わった「日本資本主義の父」渋沢栄一です。
〈みずほ〉はその第一国立銀行が源流の1つとなっていて、商売だけでなく公益性も追求した渋沢のDNAは、「ともに挑む。ともに実る。」という〈みずほ〉のパーパスにも受け継がれています。

そんな1万円札の顔に選ばれた偉人、渋沢ですが、実は農民の出身で、現在広く知られているような活躍をするまでには知られざるいくつもの挑戦や困難がありました。この渋沢のエピソードには、令和の時代にも色あせない学びがたくさん詰まっています。今回はその中でも、特に新社会人に届けたい3つのエピソードをご紹介します。

写真

第一国立銀行 渋沢史料館所蔵

心得 その1. 人生にゴールはない。もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である。

居心地の良い場所ではついその場に安定したくなることが誰しもあるのではないでしょうか。しかし渋沢は常に現状に満足することなく生涯歩み続けた人でした。

「第一国立銀行」を設立した後も、「日本をより良くしたい」という大きな目標を持って走り続け、結果的には生涯500にのぼる企業の設立・育成に携わります。
その姿勢は一貫しており、幼少期から父親達に学問の手ほどきを受けると家業を手伝いながら商才を磨いたり、幕臣としてパリ万国博覧会に参列する将軍名代・徳川昭武に随行しヨーロッパに出掛けた際には西欧の社会制度や先端技術の知識を誰よりも貪欲に吸収しました。

写真

洋装の渋沢栄一 渋沢史料館所蔵

また渋沢は「すべて世の中のことは、もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である」という言葉も残しています。その場に留まることは安定ではなく衰えであるという言葉に強い意志を感じます。

新たに社会に出れば、入社や昇格、はたまた起業など、各々の目標を達成できる瞬間が訪れるでしょう。それ自体は素晴らしいことですが、「もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である」です。常に現状に満足せず、貪欲に次の目標に進み続けることの大切さを渋沢は教えてくれます。

心得 その2. 任された仕事に真摯に取り組みつつ、自分の閃きも付け加えてみる。

新しい会社や初めて会う上司、初めて尽くしで慣れない環境にいると、それだけで緊張して疲れてしまうなんてことがありますよね。かの渋沢にもそんなドキドキの新社会人時代がありました。次のエピソードでは、23歳だった頃の渋沢の仕事について見ていきましょう。

23歳で一橋家に仕えることになった渋沢が当時任せられたのは、領内を巡回して兵士を募る仕事でした。新人渋沢は任された仕事をしっかり遂行しつつ、立ち寄った播磨国であることに気が付きます。豊富に生産されている木綿が、他国より安い値で取り引きされていたのです。農民出身の渋沢はこれを見逃さなかっただけでなく、何か解決策はないかと頭をひねります。

そこで渋沢は、綿を一橋家のもとで管理しながら播磨の特産品としてブランド化し、それを大坂や江戸にて販売するという自主提案をしたのです。さらには一橋家独自の紙幣を発行・流通させることで、木綿売買がしやすくなる仕組みづくりまで計らいました。その結果、この試みは大成功して一橋家の財政を潤わせたのはもちろん、藩の地域経済をも活性化させることができたのです。
このような実績を重ねることで渋沢は財政的手腕を徐々に認められ、この後一橋家内で出世を果たし、後に幕臣となってパリ万博に参列する将軍名代・徳川昭武一行のメンバーに推挙されるまでに至りました。

社会人になりたての時期は、任された仕事に誠実に取り組むことがもちろん大切です。ただ誰しもが持つそれぞれの視点、そこから生まれるアイデアを少しでも仕事に盛り込んでみる、そんな意識を持ってみるだけでチャンスは拡がる可能性があることを渋沢は教えてくれます。

写真

御産物木綿預手形 渋沢史料館所蔵

心得 その3. まず自分自身の頭で考え抜き、勇気を持って相手に伝える

新たな組織に入りたての時期は、先輩たちとの間に壁を感じて思うようにしゃべることができないということがあるかと思います。偉大な先輩たちに対して、渋沢はどのように立ち回ったのでしょうか。

渋沢が明治新政府の大蔵省に勤めていた時のこと、突然、西郷隆盛が「今日は頼みがあって来た」と、訪問してきたことがありました。
聞いてみるとその頼みとは、『興国安民法*1』という特別な財政施策を、廃藩置県以降も相馬藩(現・福島県)のみ特例で存続できるようにしてほしいという無理難題な頼みでした。

ただ当時の西郷は「維新の三傑」の一人として知られ、参議でありつつ日本でただ一人の陸軍大将でもあり、その地位は絶大なものでした。
一方の渋沢も切れ者という評判こそありましたが、西郷に比べれば末端の小役人に過ぎず、また年齢も渋沢32歳に対し、西郷は45歳と大先輩でした。

しかし渋沢はそんな西郷に対しても毅然とした態度で次のように述べます。
「確かに『興国安民法』は相馬藩の財政を立て直した良策であるが、それを言うならば国家全体を動かす西郷たち参議のふるまいもあらためるべきではないか、日頃から歳入の限度を超えて、「お金を出せ出せ」と大蔵省に予算を要求してきたうえで、日本の財政のあり方を省みずに相馬の『興国安民法*1』のみ残せというのは理解できない」と歯に衣着せぬ物言いを展開。その結果西郷を納得させ、帰宅させることに成功しました。

立場の差に臆して何も考えずに迎合するのではなく、まず自分の頭でしっかり考えること、その上で勇気を持って発言する姿勢を渋沢は教えてくれます。渋沢が目上の人にも自分の正義を貫けたのは、誰よりも渋沢自身が考え抜く姿勢を持っていたからだと言えます。

  • *1
    江戸時代の農政家・二宮尊徳の弟子 富田高慶が相馬藩に指導した財政や産業に関する施策。収入が少ない年のお金を基準に藩政を切り盛りして、余ったら収入は開拓などお金を増やすことに使うという法。

〈みずほ〉に受け継がれる若手挑戦のカルチャー

常に向上心を持ち、自らが起点となって、立場に関わらず推進する渋沢のDNAは、今日の〈みずほ〉にも受け継がれています。
その一例として、「みずほGCEOチャレンジ」というチャンスがあります。
これは木原GCEOに社員自らが直接アイデアを披露できる社内ピッチイベントで、見事通過した暁には、実際に予算や部署異動のサポートが与えられ、事業化を中心に立って進めることができるのです。

写真

中央社会事業協会主催
第一回全国方面委員会議にて演説する様子

更に社内文化という点では、2022年から社員の発案で始まった「リバースメンター」という制度があります。これは若手社員が、遥かに年次の高い役員のメンターになり、直接アドバイスをするというものです。若い社員のアイデアや発想力を会社全体に活かしていきたい、という社風が制度に表れています。
渋沢栄一の公益の精神は、お客さまや社会とともに"挑み"、"実って"いくための指針として、これからの若き〈みずほ〉の社員一人ひとりに継承されていくことでしょう。

RECOMMENDEDあなたへのおすすめ記事