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One MIZUHO 未来へ。お客さまとともに 新卒採用情報サイト2018

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受け継がれるDNA DNA Inheritance

<みずほ>のDNA、その源流をたどると三人の「銀行家」の熱き想いにたどり着きます。それは、日本初の銀行である第一国立銀行(後の第一勧業銀行)を設立した渋沢栄一、安田銀行(後の富士銀行)を創業した安田善次郎、第二次世界大戦後に日本興業銀行中興の祖として日本経済復興に尽力した中山素平、の三人です。
三人が生涯を通して貫いたものとは、「利益を追求するのではなく、社会発展という大義のために事を成す」「お客さまの真の発展を目指して、ともに歩む覚悟を持つ」「世界を見据えた、新しい金融を築く」という、時代が変わっても決して変わらないバンカーとしての想いでした。 その想いを、いまここに受け継いで現代の金融ビジネスをリードする存在、それが総合金融グループ<みずほ>なのです。

「利に喩らず、義に喩る」 渋沢栄一

「日本が海外諸国と肩を並べるには、国の財政の基盤となる商工業を振興し、影響力のある事業を多く生み出さなければならない。その必要条件は金融機関の整備である」。日本が近代化に向けて大きく動き出した明治維新後、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一はそう考えた。そして1873年、日本初の銀行である「第一国立銀行(後の第一勧業銀行)」を開業。頭取に就任する。渋沢が掲げた信念は、「利に喩らず、義に喩る」。利益を追求するのではなく、社会発展という「大義」のために事を成す。その信念のもと、さまざまな新事業の設立に力を注いだ。「銀行は社会発展に資する」という志を社会に示したのだ。渋沢は生涯、500社の営利事業と600の社会事業に関わり、その志により現在の日本を代表する多種多様な大企業が生み出された。渋沢栄一というバンカーが社会に示した志。それはこの国の金融にとって必要不可欠な見識だったのだ。

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(資料協力:渋沢史料館)

「一にも二にも人物。その首脳となる人物如何」 安田善次郎

明治維新後の混乱も落ち着き、日本に資本主義経済が芽生えると、流行に乗って数多の銀行が設立された。しかしその多くは、放漫経営により経営不振に陥った。そして経営破綻が起こる度に、銀行の原点である「信頼」は揺らいだ。そんな中、ある人物のもとに、政府から銀行救済の依頼が舞い込んだ。一代で安田銀行(後の富士銀行)を創業、その後金融を通じて多くの事業家を支え、日本銀行の初代理事にも就任した安田善次郎である。安田が救済した銀行は70行におよび、いつしか安田は「銀行救済の神様」と呼ばれるようになった。安田は、常日頃から事業の成否は「一にも人物、二にも人物、その首脳(トップ)となる人物如何」と言明していた。才能や経験よりも、その人物がいかに信念を持ち、事業を展開しているかが重要だと考えていたのだ。安田は、金融を通じて多くの事業家を支え続け、現在の日本資本主義経済の礎を築き上げたのである。

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(写真提供:国立国会図書館)

「日本の産業を世界で戦えるものにしたい」 中山素平

第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、各企業が資金を直接、金融市場で調達する、という米国型資本主義社会への展開を図り、戦前から産業金融を担っていた日本興業銀行(興銀)の廃止を推し進めていた。しかし、鉄鋼、電力、鉄道等の基幹産業が打撃を受けていた日本経済に、直接金融市場の成長を待つ余裕はなかった。「長期を見据えてリスクを取る銀行の存在は不可欠だ」「ここで妥協すれば復興は遅れる」。当時、興銀の再建準備室長として指揮を執っていた中山素平は総司令部に通い続け、興銀本来の使命、役割を繰り返し説いた。その努力が実り、興銀の存続が実現する。その後も中山は「日本の産業を世界で戦えるものにしたい」という熱い思いを胸に、世界一の粗鋼生産量を誇る新日本製鐵の誕生や、日産自動車とプリンス自動車の合併などに尽力した。「技術大国日本」の名を世に広め、日本経済を高度成長へと導いた原動力。そこには中山素平というバンカーの存在があった。

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(写真提供:共同通信社)

グループ各社の成り立ち

みずほ銀行

第一勧業銀行

創業

「日本最古の銀行」として渋沢栄一によって第一国立銀行として設立。商工業金融の振興と健全通貨の確立という使命を担って、草創期の我が国の経済界、金融界に大きく貢献しました。1896年、株式会社組織に改組し、以来、商業銀行として確固たる地位を築いてきました。日本勧業銀行は、官営銀行として近代日本の農・工業の改良発展という国家的公共的使命を担って設立。債券を資金源に長期低利の融資を行い、経済社会の発展に貢献してきました。1950年に普通銀行へ転換し、以後商業銀行として発展してきました。

第一勧業銀行の発足

1971年、第一銀行と日本勧業銀行との対等合併により発足。国民各層と広範囲なお取引をいただき、真に国民的、中立的な銀行をつくり上げてきました。

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    第一国立銀行(写真提供:国立国会図書館)

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    日本勧業銀行(写真提供:毎日新聞社)

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富士銀行

創業

1866年(慶応2年)、安田善次郎は日本橋小舟町に両替専門商「安田商店」を開き、1880年に「合本安田銀行」に改組。明治維新以降、「新しい日本国家の形成と発展を支援し促進させる」ことを使命と考え、新政府発行の紙幣流通や公債発行等、公共事業への資金を積極的に提供し、「公金の富士」としての名声を築く基盤となりました。その後、経営難に陥った中小銀行を度々援助、吸収、合併し、1923年(大正12年)には、安田関係11行が大合同、日本最大の新安田銀行としてスタートしました。

財閥解体、富士銀行へ

1948年財閥解体の流れの中で、安田銀行は「富士銀行」に行名変更。1952年には初の海外拠点としてロンドン支店を開設、国際化にいち早く対応しました。

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    安田銀行(写真提供:国立国会図書館)

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日本興業銀行

日本興業銀行法に基づく「特殊銀行」としての発足

日本興業銀行は、我が国の近代工業の勃興期に、産業界の旺盛な資金需要に応える為に、長期資金のみならず、証券・信託機能も備えた特例法に基づく金融機関として1902年(明治35年)に設立。事業資金の供給のほか、社債引受業務、外資導入、証券市場の育成等、我が国近代化の為の金融基盤整備に深く係わってきました。

長期信用銀行として再出発

戦後、経済復興と基礎産業強化の為に、1952年(昭和27年)、「長期信用銀行法」に基づく長期信用銀行として再出発しました。以来、日本興業銀行は高度成長期の担い手となる重化学工業への資金供給をはじめ、日本企業の国際競争力強化に力を尽くし、日本経済の発展に貢献してきました。

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    日本興業銀行(写真提供:毎日新聞社)

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みずほ信託銀行

1925年、日本に信託法・信託業法が制定されたのを契機に、日本における信託会社の草分け的な存在として、みずほ信託銀行の前身である安田信託銀行が設立されました。そして1990年代の金融混乱期を経て、3行の戦略子会社である第一勧業信託、富士信託、興銀信託と統合し、2003年にみずほ信託銀行が誕生しました。
個人のお客さまには、金銭信託等の資産運用、不動産、資産承継・事業承継コンサルティング等の信託ならではの高い専門性を活かした総合的なサービスを提供、また法人のお客さまには不動産、資産流動化等の信託機能、高度なコンサルティング提案を通じた証券代行業務、さらに年金・資産運用部門でも先進的なプロダクツやソリューションを提供しています。

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    安田信託銀行

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みずほ証券

金融自由化の中で銀行は子会社方式によって証券業界へと参入、1993~94年にかけて3行は証券子会社を設立しました。みずほ証券は、その3つの戦略子会社を合併、さらに銀行のインベストメントバンキング部門を統合する形で誕生し、2009年5月には、新光証券との合併により、フルラインの総合証券会社へと飛躍を遂げました。
一方、日本勧業証券を母体とする「みずほインベスターズ証券」は、業界内でも銀行ネットワーク型証券のビジネスモデルをいち早く構築してきました。銀行連携の一環として、みずほ銀行ロビー内に共同店舗「プラネットブース」を展開し、一般店舗と同様のフルラインの証券サービスをご提供するなど、お客さまの利便性の向上に日々努め、多様化するお客さまのニーズにお応えしてきました。
そして2013年1月、みずほ証券とみずほインベスターズ証券は証券分野における、国内リテール業務の強化や経営インフラの合理化・効率化を推し進め、グループ総合証券会社として一元的に証券機能を提供することを目的として合併を行い、新生「みずほ証券」が誕生しました。

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プラネットブース

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